87C4F428-23FC-42D8-8052-F611EFF30F31

稽古場からドラマトゥルクより  ––『流れる』に寄せて

制作側と観客との中間的なドラマトゥルクという立場に特有の視点とは何か、ということについて、まず、ここに関して中間はないのではないかというところに至ってしまいました。色々な方がいるとは思いますが、ある完成(?)された舞台をそれを最初として見るのが観客・外側であるとしたら、稽古を何度も見ていて、さらに脚本の内容を全て知っているという人はもう内側なんですね。だから外側をこういう風に考えると、ドラマトゥルクとその他の制作側・内側との違いは、作品との関わり方の強さというか深さというか、そういう程度の問題になってきます。なので厳密には内か外かのいずれかで間はないんじゃないかということになります。とはいったものの、中途半端な内側ということはできるので、そこから考えてみようと思います。

稽古の状態はなんとなく公開されたりすることもありますが、やはり脚本を知っているというのは(少なくとも経験上は)内側でしかありえないことで、実際の演技についてもそうです。でも何回か空けて稽古にいってみると、当然ですが、脚本の内容が変わっていたり、俳優の演技が変わっていたりします。そして大抵良い方向に変わっています。良い方向というのは大雑把に言えば、いや申し訳ないんですが、何か段々作品になってきている、何らかの完成に近づいているという感覚です。そういうものがクリアに感じられて、何やらよろしくない部分を見つけられる可能性も高まるというのが頻度の少ないことのよさかなと思ったりしたんですが、それだと、そんなものかという気がするかもしれません。重要なことではあるのですが。

まあただ、実はこれ、稽古を見る頻度にはあまり関係がないようで、稽古の最中でもそうなんです。立ち稽古を見る、演出家が演出する、俳優がまたやってみる、俳優から意見が出たりする、演出家が同意なり補足なり否定したりする、というようにやっていると、なんだかそのシーンが完成していくわけですね。完成というのはまだ少し奇妙なので、何やら統一感を持っていくという感じです。このような稽古の場面を半ば客観的に第三者的な視点で眺めている、この状況は実際のところ中途半端な内側です。いやというより、この、作品の過程を眺める、というのは割と間だな、と結局思ったりするんですが、とりあえず、このシーンが完成していく過程は結構不思議なものです。普段通りの動きや喋り方に対しては不自然だと言われることがあり、かといってあまり作為的(に見える)だともっとリアルな方がいい、あるいは、実際はこうするとかそうしない、というように言われることがあります。簡単にいうと、現実的なものとあまり現実的でないものが両方、しばしば(常に?)同時に求められるわけですね。ここでふと浮かんだことをそのまま記すと、これは「演劇が再現である」ことと関係している気がします。あるいはやはり「演劇は再現である」のではないかということでもあります。『詩学』のテキストをさらに思い起こすことになるんですが、現実をどのように「再現」するのかというと、「ある出来事を、無理のない筋の通った必然性のある出来事として再現する」のだそうです。これが「カタルシス」の要因だそうですが、まあそんなようなことが書いてありました。つまりリアルさを求めるにしても、それはただ現実(舞台ではないところの出来事)に近づけることではなく、必然性を持って再現された新しい現実的な何かを作ることなのかなと。だから、ただのリアルなものだと、違和感のあるものに見えてくるんです。他には例えば、今この人がこの位置にいるのはおかしい、とか、今の台詞の間とか言い方は文脈から考えるとおかしい、とか、現実(というか舞台以外のところ)で起こってもおかしくないこと、または十分にあり得ることが、奇異に感じられるのかもしれません。こういう違和感を消していって、それ自体が何だろうそれはとも思うのですが、現実の再現というものが出来上がっていくのでしょうね。そしてこれが一つの完成・統一でしょうか。まあ何にしても、舞台上(や稽古場)の出来事となると、リアルなことが時に不自然であるのはどうしてだろう、と素朴に思います。舞台上だからなのでしょうが。

以上抽象的な内容になってしまいすいません。いやもちろん公演前だからなんですが、具体的な内容を明かさないというのは至極内側の所業ですね。ただやはり、統一されたものは悪いものではないと思うので、本番を楽しみにしていただきたいです。

 

牧村祐介

S__59850756

主宰インタビュー  ––『流れる』に寄せて

3月28日(木)〜4月1日(月)の『流れる』では、劇団名でもある「あわい(間)」がひとつのキーとなっています。
劇団あはひの主宰・大塚健太郎と松尾敢太郎が「あわい」をどのように捉え、作品を作っているのか、インタビューを行いました。

(聞き手・構成:冨田粥)

 

–まずは劇団結成時のことについて伺ってもいいですか?

大塚:劇団を結成したのは、松尾から誘われたのがきっかけです。

松尾:僕は芸能事務所でマネージャーをしている早稲田のOBの先輩と話した際、「学生のうちにやりたいことをやりなさい」と言われたんです。それで、やるしかないなと思い、劇団を結成しようと、大学1年生の9月に大塚を誘いました。

大塚:その年の4月に、早稲田のサークルのある公演を松尾と観に行っていたんです。それを観たあと、その公演について話をしたんですが、僕は脚本の内容についてあれこれ言っていたのに対して、松尾は演技について話していました。

松尾:だから、大塚と組めばお互いの考えを補えあえるんじゃないかと思い、彼を誘いましたね。

大塚:僕もそれに関しては同じように思っていたので、誘われてすぐやろうってことになりました。それで、暇そうだったからという理由で、小名を誘って3人で劇団を始めました。
それから1ヶ月間は、劇団名を考えてましたね。ロゴは劇団名が決まった次の日に1時間くらいでできたんですけど。

–なぜ「あはひ」になったんですか?

大塚:もともと、松尾が「かんけん隊」がいいんじゃないかと提案してきて。「かんたろう」と「けんたろう」で「かんけん隊」というわけなんですが、僕はそれは違うなと思って(笑) それで、松尾との妥協点を探るために「かん」とも「けん」とも読める漢字を探したんです。

その中で、「間」という字を見つけて、「間」ってよく考えると、「空間」「時間」「人間」「間(ま)」とね、演劇にすごく関わってるじゃないか、と気づき、「間」を使うのがいいのでは、と提案しました。

そこから、古語で「あわい」と読み方があることを知り、「劇団あはひ」となりました。
その後、能楽師の安田登さんの著書で「あわい」についての文章を読むなどしていくなかで、劇団の方向性が固まっていきました。

安田さんは著書『あわいの力』のなかで「能の観客は、何か自分の記憶だったり、そのときの身体の状況だったりを反映させて、各々異なる風景を観ている」という内容のことを言っていて、僕はそれが演劇にとっても一つの理想になるものだと考えてます。

松尾:僕は、結成当初や旗揚げ公演『どさくさ』の稽古をしている頃は、観客へのメッセージや伝えたいことが必須だと考えていて、そういったものが見えてこその作品だと思っていました。でも、あはひでの活動を通じて、そういった考えもあるんだと視野が広がりましたね。

–劇団のなかで「あわい」というのはどう捉えられているのでしょう?

大塚:僕らの中では、「あわい」をベン図で解釈していて、二つある円の重なりの部分を「あわい」だと考えています。
ただ、それぞれの円がなにを指すか、つまり、何と何の「あわい」を考えればいいのか、ということについては、簡単には答えが出せないと思っています。
例えば、仮に安直に「作品と観客のあわい」なんかを追い求めようとしたとき、作品の完成度はあまり重要でなくなってしまうというか、観客個人に働きかけられる1シーンがあればそれだけでもう素晴らしい作品かのようになってしまう。それは違うと思うんです。

松尾:それにその考え方だと、観客に依存してしまうということだと思うし、そうなっちゃうと作品をつくるモチベーションがどうなっていくんだろうっていうのは思いますね。

大塚:なのでむしろ、その問題に取り組み続けることが差し当たりのところは重要なのかもしれない。よくわかりませんが(笑)

–では、今のところは、「何と何のあわい」かということについて実験的に演劇をつくっている感じなのでしょうか?

大塚:そうですね。そもそも、「演劇」という言葉によって狭まってしまうものがあるんじゃないかとも思います。疑えるところをすべて疑って、それでも残っているものが演劇なんだと考えてますね。

松尾:確かに、あはひでは、演劇に対する疑いというのが常に伴っているとは思います。

 

–お二人は、早稲田大学 文学部の演劇映像コース 映像系に所属してらっしゃいますね。演劇系に進まず、映像を専攻しているのもそういった演劇への疑いがひとつの理由なのでしょうか?

大塚:はい。僕はもともと、演劇よりも映画から大きく影響を受けて作品を作っています。特にエドワード・ヤンの作品には、無意識下で影響を受けていると思います。彼の作品は、画として完璧というか、例えば2時間あるうち、いつ止めても完璧な写真になっている、くらいに計算され尽くされていて美しい。まあ、それは演劇にはあまり活かせないポイントだけど(笑)
あとは、テレビドラマですね。宮藤官九郎さんのドラマが好きで、そこから演劇を見始めたので。ただ、演劇を観てておもしろいと思えるものにあまり出会わないんですよね。だから、自分が観客として観ておもしろいと思えるものを作りたいです。

松尾:僕は、大塚が出してくる脚本やアイディアをどうおもしろくするか、自分でどう表現するかを考えたい、というモチベーションでやってます。自分が観客として観ておもしろいものをつくりたい、という点では大塚と同じですね。
でも、僕はもともと高校時代から演劇をやっていて、そこでの環境から大きく影響を受けました。作品をつくる上で、テーマや伝えたいことを共有した上で、あれは違うんじゃないか、こっちがちかいんじゃないか、という話し合いがしたいと思ってました。共有するものがないと、なんでもよくなっちゃう気がして。その点は大塚と異なる点だと思います。

大塚:僕はある意味、結果主義ではあると思います。できあがったものが自分にとっておもしろければ、その過程が全く違っていたり、何をおもしろいと思っているかが異なっていてもぜんぜん関係ない。だから、一方が感動的でエモーショナルな芝居ができたと思っていて、もう一方が滑稽なものができたと思っていたとしても、それぞれの評価軸でおもしろいと思うことができればいいなと思ってます。

S__52576263

好きな寿司ネタは水たこです(古館)

どうも、古館です。
前回の宣言通り寿司ネタの話からブログを始めてみましたが、なかなか広がらないものですね。このテーマでブログ1回分を無駄にしなくてよかったです。
とはいえ正解みたいな稽古場レポートは東くんがしてくれたし、わたしは何を書こう。自分の番が回ってくるまでは書きたい気持ちがあるのに、いざ回ってくると筆が進まないというのは当番制のブログあるあるですね。
まぁでもこの時期だし、わたしの近況を書いても引きがなさそうなので稽古場レポート〈古館編〉でもお送りしようと思います。

劇団あはひ第2回本公演となる今回は、客演の方々をお呼びしているのもあり、東くんも言うように今までとはまた違った空気感の稽古場になっています。第1回目の稽古の際には絶望的な気持ちにもなりました。語弊を恐れず言えば、わたしはこんな怪物のような方々と土俵を共にしなければならないのか、と。
稽古場ではもはやポッチャマの段階でディアルガと対決させられてる気分です。わかりますかね?(ポケットモンスターダイアモンド&パールを知る人にだけ通じる例えなんですけど、すみません。)ただそうは言ってももう後に引けるものでもなく。わたしにできることはなんだろうと考えて、試してみて、取り繕い食らいつくのに必死な毎回です。

また、実は稽古以前に別の緊張も生じていたりします。それは、集合時刻への緊張です。これ重要。というのも、恥ずかしながらあはひメンバーには(わたしも含め)遅刻癖のある人が非常に多いのです。いや別に何も寝坊するわけじゃないんですよ、さすがに。ただやっぱりね、家を出る直前に携帯がどっかに行っちゃうとか、電車の乗り換えで失敗しちゃうとか、そういうことなんです、たぶん。ここ、遅刻しがちな人は大きく頷いてくれるポイントじゃないでしょうか。まぁもっと余裕を持てばいいだけの話なんですけど、なかなかね。
で、今までだったら“ごめん10分遅れる~”みたいなことで済まされたのですが、今回はさすがにそうもいかない。しかも客演の方々はさすがは余裕のある大人、非常に集合が早いです。あ、いや、もちろん、人としてそれが当たり前のことではあるんですけど、はい。まぁというわけで、メンバーのみの稽古場だと少し緩くなってしまう集合概念にも締りが生じ、基本オンタイムで始まる稽古場となっています。素晴らしいことです。

とはいえいい緊張感のある稽古場といえど、みなさんが怖いわけではありません。むしろ優しい。めちゃくちゃ優しい。上村さんは演出にいろいろなアドバイスをしてくださるなど心強い大先輩である一方で、休憩時間には一緒にフリスビーをしてくださったり、つい可愛くて買ってしまったというピンクとオレンジの靴下を衣装合わせの時に貸してくださったり、そんなお茶目な一面もあります。
踊り子さんは一部で姉御と呼ばれているという噂通り、本当に優しくてかっこいい方です。でも意外とゲラだったり、持っている私服がすごく多岐に渡っていてお洒落だったり、そんなギャップを端々に感じます。姉御だなあ。
鶴田さんは大塚が知り合った際に妖精の役をされていたそうなのですが、本当に妖精なのでは…?という雰囲気を持っていらっしゃいます。そんな鶴田さんがフレンドリーに話しかけてくださると、なんだか、その度にドキドキしてしまう自分がいます。

ここまできたら稽古場でのメンバーの様子も軽く紹介しておきましょう。演出である大塚は最近マリオカートにハマっているそうです。自分なりの息抜きを見つけつつ執筆と演出を同時にこなしているその姿には、役者として火をつけられる思いです。
演助の高本はいよいよコーヒーが美味しい時期になったと呟いていました。いろいろな仕事を先回ってやってくれる彼女なので、これから本番までストレスでコーヒーを飲みすぎないかが心配です。
制作の小名くんはドラッグストアのバイトが忙しいのかあまり稽古場に来ません。ただいざ来ると意外と的確なアドバイスをくれたりするので、彼に褒められると嬉しいです。
同じく制作の冨田さんは他の現場を抱えていることもありすごく知識豊富です。宣伝美術も兼ねているためそういった視点も交え、様々な助言をしてくれます。
そして最後に役者の東くんはちょっと抜けていたりふざけていたりする部分もあるのですが、作品に対してはすごく真面目です。台詞の覚えが早くてびっくりします。
ちなみに、主宰の松尾は別の現場で忙しいらしく、今回の稽古場には基本的に不在のため書くことがありません。先日その雄姿を見てきました。今もどこかでがんばっていることでしょう。

さて、というわけでわたしなりのメンバー紹介みたいなことをしていたら、またしても長くなってしまいました。また途中までしか読んでもらえないのかなあ。(あ、この言い方には、前回の記事を投稿した際に友達から“長いし難しかったから読み飛ばした”と言われた心の傷が内包されています。)
まぁね、リンクを開いてこのページに辿り着いてもらえるだけでも十分嬉しいんですよ。ただ、ここまで読んでくれる方がいたり、それでさらにチケット予約を決めてくれる方がいたりなんかした日には、もうわたしは飛び上がって喜んじゃいますよね。そりゃあ、本当に。
それでは、そろそろ失礼することとしましょうか。劇団あはひ『流れる』、ぜひともよろしくお願いします!

428B7085-A40E-48A6-9A1C-9313071602BA

稽古始まってます(東)

どうも、東です。

もう三月、卒業シーズンですね。バイト先の常連の子達が、高校の卒業式の帰りに顔を出してくれました。卒業アルバムを開いているのを見て、何だか感慨深い気持ちに勝手になっています。

ブログの更新がだいぶ遅れてしまいました、すみません。

気付けば、公演まで一か月を切りました。

稽古も、今日で11回目です。

客演の方々がいらっしゃる事もあってか、毎回程良い緊張感の中で稽古を積めていると思います。台本が更新されるペースも速く、大塚君が頑張って書き進めてくれているようです。

なんというか、今までの公演に比べると、ここまでなかなか順調です。

とは言え、まだいくつものシーンが断片的に集まっているだけの状態なので、初稿が仕上がって全体像が見えた時に、初めてわかることもたくさんあるのだろうなと思います。

一つ言えるのは、多分ですが、旗揚げ公演の「どさくさ」と、早稲田祭参加企画で上演した「傘」の両方の要素を持った作品になるのではないかという事です。

劇団として、これまで経験した事を活かせればと思います。

僕は、今回も演者としてこの作品に参加させてもらっています。

なんだかんだで、あはひが上演してきた全公演に出演させてもらっているのは自分だけで、本当に有難い限りです。

今回は初めて客演の方々を迎えての作品になるわけですが、稽古の場でも、色々と気づかされる事が多いです。

皆さんそれぞれ色を持っている、すごい役者さんで、自分の未熟さを痛感させられる日々ですが、自分なりにこの作品に与えられることは何かを考えてやっていきたいと思います。

次にブログの順番が周ってくる頃には、公演が終わっているのだと思うと、なんだか信じられない気持ちです。

本番までの約4週間、少しでも良い作品になるようにみんなで力を尽くしたいと思います。

それまで楽しみに待って頂ければ、幸いです。

それではまた。

logomark

© 2018 gekidanawai, Waseda Univ. All rights reserved.