2019.12.11 4:15 am - 日々のあはひ / 小名洋脩

どうも、火曜日担当の小名です。毎週更新曜日担当になってからちょくちょくさぼっていると思われているかもしれませんが、違います。実は二週間に一回のペースで更新しているのです。勝手に。ええ。

12月9日月曜日、「第四回公演『どさくさ』プレイベント『粗忽長屋』を読み解く」、無事終了致しました。サンキュータツオさん、立川志のぽんさん、落語研究会の方々、本当にありがとうございました…それからどらま館の方々にもいつもお世話になっております…ああ早稲田大学学生生活課や文化企画課の方々にも…。プレイベントを開くだけでも色々とたくさんの方に助けて頂いています。まあいつもですけどね…。本多劇場でもですけど…。まあ少なくとも、劇団員も客演も皆で頑張っていければいいですね。

さて、プレイベントのお話をしたいと思います。来られなかった人もいますし。思い出せる限りですので間違っていたらすいません。二部構成で、第一部は立川志のぽんさんの『粗忽長屋』口演、第二部は主宰二人と志のぽんさん、サンキュータツオさんで座談会をしました。

一応あらすじを。

浅草観音詣に来た八五郎は、道端で人だかりに遭遇する。役人によると、昨晩行き倒れた男の死体を民衆に見せて、彼を知る人物を探しているのだという。すると、八五郎は死体の顔を見るなり、そいつは同じ長屋に住む熊五郎で、自分は今朝彼に会ったと言い張る。行き倒れが発見されたのは昨晩だと主張する役人の話に聞く耳を持たず、八五郎は、熊五郎本人を連れてくると言ってその場を去る……。

志のぽんさんの口演は、立川流ということで、柳家のような淡白な感じに比べれば、どちらかというとドラマチックでした。あ『粗忽長屋』は調べれば色々見れますよ。その後座談会でおっしゃっていましたが、やっぱり立川談志師匠を意識されているのだそう。

立川談志といえば、『粗忽長屋』を「主観長屋」という風に解釈していて、簡単にいうと、登場人物は主観性が強すぎて、「自分が生きてるか死んでいるかすらわからくなってしまっている状態」にあるということらしいです。あるいは「生きているはずの人物を死んでいると断定して、しかもその本人を説得する」という行為も、過度に主観的と言えます。

そして、第二部、「主観長屋」についての話しが主だったような気がします。なんとなくトピック毎にしましょう。

「主観長屋」について

サンキュータツオさんもこの解釈に少なからず同意していて、特に八五郎のように思い込みが激しいかつそれを強く主張することを「局所論理」というように言い換えていて、つまり、全体が見えておらずただ部分的にそれに固執しているような状態です。あるいは、客観的に事実であろうことに反した主張を続けることです。「主観長屋」では、八五郎が熊五郎を死んでいると言って説得する場面が結構強めに演じられます。しかもこういうやり方って、メディアの切り取りなんかを考えると、十分事実を変容させることができます。実際熊五郎は自分が死んでいると思い込むわけです。まあ思い込むというからには彼らの局所的な主観が間違っていると言っているようなもので、何が主観的かというと、彼らは「死んでいる人間が生きて活動することはありえない」という客観的な事実がわかっていないという点です。だからもはや粗忽、馬鹿とか慌ただしいというよりは、「主観長屋」なんですね。

精神分析が腑に落ちていた松尾

というような感じで話していたら、松尾くんが突然本の引用を紹介したいと言って音読を始めました(『落語の国の精神分析』みすず書房)。用意していたに違いない。にもかかわらず打ち合わせていなかったような空気。本人曰く、「いやあ、腑に落ちたんですよねえ」とのこと。

今日は時間がなかったかつ本が貸りられなかったので(さらっと読みましたよ)、うろ覚えで要約すると、粗忽とは「人間精神における意識と無意識との間で、対話を欠いている状態」のことらしいです。精神分析の前提として、一人の人間が統一的で常に同一な精神状態であるとは限らない、みたいなものがあります。自分の無意識と対話するということは、簡単に言えば、自分の中で、自分ではコントロールできない部分があることを知るということではないでしょうか。これはおそらく自分を客体化、つまり客観視できる契機になります。自己分裂というと仰々しいですが、こういうことはあまりにも日常茶飯事だし、多分実際人間の精神ってそんなものなのでしょうね。まあ無意識に限らず、自分のそれまでの主観からは推し量れない何か、そういうものがない場合は意識100%ですからね、そりゃあ主観は粗忽とも言えるようになります。太陽が動いているように見えるから、太陽が動いていると言うようなものですからね。確かにわからなくもないです。そしてこういう文脈で考えると、熊五郎は最後、自分の思い込みが崩れ始める契機に出会ったということでしょう。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」という。

メタフィクションに飽きた大塚

脚本・演出の大塚くんは旗揚げ公演でやったようなメタフィクションに飽きています。そのことを述べると、「一回そういうこといってみたいねえ」とお二人。多分ちょっといじられてました。

ただまあ、メタ的と言っても、ある物語があって、それを包摂する構造がその物語に含まれているみたいな、結局物語として閉じているような場合と、落語のように客席に向かって話しかけたり、その日しか伝わらないようなことを言ったり、そもそも物語というか舞台上から外に出ることが前提されている場合があると思います。旗揚げ公演は前者に近かったのかも。「落語は扉を開くときと閉じるときがある」と言われていましたが、つまり物語に入り込むときと突然客席に語りかけるときというように。でも多分それ以上に、落語ってそもそもが後者の意味でメタ的なんだと思います。扇子や手ぬぐいを何かに見立てたり、右向きで喋ればA、左向きで喋ればB、これももはや見立てみたいなもので、いずれにせよ観客が意味付けしてそれを了解しなければ成立しないんですね。そうじゃなっかたら扇子と手ぬぐいとキョロキョロしている人ですから。映画であったりすれば(フィクションであるという了解はあっても)観客は傍観者でいられますが、落語でそうだと文字通り特に意味がないんですね。演劇もせっかく見る人が目の前に同じ時間にいるわけですから、というかそういう状態が、物語が物語だけでは完結しないという点で、そもそもメタ的なんです。多分。

 

ちょっと長くなってきたのでこのくらいにします。それにちょっと記憶の問題があります…。ただどうやら、今回のイベントのおかげで『どさくさ』について考えられることが大いに増えたようです。改めて皆さんありがとうございました。それでは。

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