「演劇は、生身の俳優によって、ライブで上演されるものだ」という、今では演劇の定義そのものであるとすら考えられている発想は、いつ頃生まれたのだろう?

それはおそらく、映画との差別化に迫られたときのことだったのだろうと思う。

自らの立ち位置を揺るがしかねない新技術の到来によって、演劇は、独立した芸術分野としての地位を確保し続けるために、あくまで暫定的に、その定義を甘受したのではないだろうか。だとすれば、私たちはこの百年ほどの間、演劇の定義を取り違え続けていることになる。

あるいは、探し続けていることに。

 

実際、演劇と映画はよく似ている。けれども異なる点もある。

たとえば、最たる点と思われるのは、カメラが必要かどうかだ。

映画はカメラが人間の運動を記述することが成立の条件だが、演劇はそうではない。人間の身体がそこにあればそれは成立可能である。というか、演劇は、人間がいれば自然とそこに生まれてしまうというような類のものだ。そしてそれは、むしろ音楽なんかとよく似ている。

 

パンデミックの状況に置かれた演劇は、「オンライン演劇」や「舞台映像の生配信」といった方法で生き延びを図った。けれどもそれらは、仮に「ライブで上演」されたとしても、少なくともその条件のみをもって演劇になるということにはならず、むしろカメラによって人間の運動が記述されている、という点において、それは映画に近いのかもしれない。

それよりも、それが仮に録音されたものであったとしても、たとえば音楽を聴いている時、そこにはある種の演劇性が宿っているように感じられることがある。

足掻いてみるならそちらの方向性ではないか?と思った。

いや、もっと端的にいうべきかもしれない。

 

音楽を見習ったらどうだろう、と思った。

音楽は強い。

「ライブか、そうでないか」という、演劇が今でも囚われ続けているような次元の問いを音楽はとっくに飛び越えていて、録音された音楽は音楽じゃない、なんて思う人は、今ではもう(ほとんど)いないだろう。

それは羨ましいことだと思った。

 

当初、私たちは、音楽作品を作ってみようと思っていた。

テキストを俳優たちが朗読/演技したものの録音と、音楽を重ねて一つの作品として制作してみる。

それが結果的に音楽になりうるのか、あるいは演劇になってしまうのかは、全然わからなかった。

 

そしていま、出来上がったものを聴いて、未だにこれが音楽なのか演劇なのかわからないでいる。それはまるで、「音楽でもあり、演劇でもある」ようなものであるかのように感じられる。

だから私たちは、これを〈音楽演劇〉と名づけることにした。

それはまだ、端的に「演劇」と呼ぶことが許されるものなのかわからない(「音楽」と呼ぶことは、なぜだか許されるような気がする)。だからこれは実のところ、そう呼ぶにはあまりにも曖昧で、頼りない「宣言」だ。

けれども、その件に関しては、もう少し結論を出すのを待ってもいいように思う。

なにせ、百年探しているのだ。そう焦ることもない。

 

大塚健太郎

 

 

音楽演劇

1st Album『SONNET』

Awai+Umi Ogimi

本日2021.9.17 よりリリース

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