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稽古場からドラマトゥルクより  ––『流れる』に寄せて

制作側と観客との中間的なドラマトゥルクという立場に特有の視点とは何か、ということについて、まず、ここに関して中間はないのではないかというところに至ってしまいました。色々な方がいるとは思いますが、ある完成(?)された舞台をそれを最初として見るのが観客・外側であるとしたら、稽古を何度も見ていて、さらに脚本の内容を全て知っているという人はもう内側なんですね。だから外側をこういう風に考えると、ドラマトゥルクとその他の制作側・内側との違いは、作品との関わり方の強さというか深さというか、そういう程度の問題になってきます。なので厳密には内か外かのいずれかで間はないんじゃないかということになります。とはいったものの、中途半端な内側ということはできるので、そこから考えてみようと思います。

稽古の状態はなんとなく公開されたりすることもありますが、やはり脚本を知っているというのは(少なくとも経験上は)内側でしかありえないことで、実際の演技についてもそうです。でも何回か空けて稽古にいってみると、当然ですが、脚本の内容が変わっていたり、俳優の演技が変わっていたりします。そして大抵良い方向に変わっています。良い方向というのは大雑把に言えば、いや申し訳ないんですが、何か段々作品になってきている、何らかの完成に近づいているという感覚です。そういうものがクリアに感じられて、何やらよろしくない部分を見つけられる可能性も高まるというのが頻度の少ないことのよさかなと思ったりしたんですが、それだと、そんなものかという気がするかもしれません。重要なことではあるのですが。

まあただ、実はこれ、稽古を見る頻度にはあまり関係がないようで、稽古の最中でもそうなんです。立ち稽古を見る、演出家が演出する、俳優がまたやってみる、俳優から意見が出たりする、演出家が同意なり補足なり否定したりする、というようにやっていると、なんだかそのシーンが完成していくわけですね。完成というのはまだ少し奇妙なので、何やら統一感を持っていくという感じです。このような稽古の場面を半ば客観的に第三者的な視点で眺めている、この状況は実際のところ中途半端な内側です。いやというより、この、作品の過程を眺める、というのは割と間だな、と結局思ったりするんですが、とりあえず、このシーンが完成していく過程は結構不思議なものです。普段通りの動きや喋り方に対しては不自然だと言われることがあり、かといってあまり作為的(に見える)だともっとリアルな方がいい、あるいは、実際はこうするとかそうしない、というように言われることがあります。簡単にいうと、現実的なものとあまり現実的でないものが両方、しばしば(常に?)同時に求められるわけですね。ここでふと浮かんだことをそのまま記すと、これは「演劇が再現である」ことと関係している気がします。あるいはやはり「演劇は再現である」のではないかということでもあります。『詩学』のテキストをさらに思い起こすことになるんですが、現実をどのように「再現」するのかというと、「ある出来事を、無理のない筋の通った必然性のある出来事として再現する」のだそうです。これが「カタルシス」の要因だそうですが、まあそんなようなことが書いてありました。つまりリアルさを求めるにしても、それはただ現実(舞台ではないところの出来事)に近づけることではなく、必然性を持って再現された新しい現実的な何かを作ることなのかなと。だから、ただのリアルなものだと、違和感のあるものに見えてくるんです。他には例えば、今この人がこの位置にいるのはおかしい、とか、今の台詞の間とか言い方は文脈から考えるとおかしい、とか、現実(というか舞台以外のところ)で起こってもおかしくないこと、または十分にあり得ることが、奇異に感じられるのかもしれません。こういう違和感を消していって、それ自体が何だろうそれはとも思うのですが、現実の再現というものが出来上がっていくのでしょうね。そしてこれが一つの完成・統一でしょうか。まあ何にしても、舞台上(や稽古場)の出来事となると、リアルなことが時に不自然であるのはどうしてだろう、と素朴に思います。舞台上だからなのでしょうが。

以上抽象的な内容になってしまいすいません。いやもちろん公演前だからなんですが、具体的な内容を明かさないというのは至極内側の所業ですね。ただやはり、統一されたものは悪いものではないと思うので、本番を楽しみにしていただきたいです。

 

牧村祐介

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主宰インタビュー  ––『流れる』に寄せて

3月28日(木)〜4月1日(月)の『流れる』では、劇団名でもある「あわい(間)」がひとつのキーとなっています。
劇団あはひの主宰・大塚健太郎と松尾敢太郎が「あわい」をどのように捉え、作品を作っているのか、インタビューを行いました。

(聞き手・構成:冨田粥)

 

–まずは劇団結成時のことについて伺ってもいいですか?

大塚:劇団を結成したのは、松尾から誘われたのがきっかけです。

松尾:僕は芸能事務所でマネージャーをしている早稲田のOBの先輩と話した際、「学生のうちにやりたいことをやりなさい」と言われたんです。それで、やるしかないなと思い、劇団を結成しようと、大学1年生の9月に大塚を誘いました。

大塚:その年の4月に、早稲田のサークルのある公演を松尾と観に行っていたんです。それを観たあと、その公演について話をしたんですが、僕は脚本の内容についてあれこれ言っていたのに対して、松尾は演技について話していました。

松尾:だから、大塚と組めばお互いの考えを補えあえるんじゃないかと思い、彼を誘いましたね。

大塚:僕もそれに関しては同じように思っていたので、誘われてすぐやろうってことになりました。それで、暇そうだったからという理由で、小名を誘って3人で劇団を始めました。
それから1ヶ月間は、劇団名を考えてましたね。ロゴは劇団名が決まった次の日に1時間くらいでできたんですけど。

–なぜ「あはひ」になったんですか?

大塚:もともと、松尾が「かんけん隊」がいいんじゃないかと提案してきて。「かんたろう」と「けんたろう」で「かんけん隊」というわけなんですが、僕はそれは違うなと思って(笑) それで、松尾との妥協点を探るために「かん」とも「けん」とも読める漢字を探したんです。

その中で、「間」という字を見つけて、「間」ってよく考えると、「空間」「時間」「人間」「間(ま)」とね、演劇にすごく関わってるじゃないか、と気づき、「間」を使うのがいいのでは、と提案しました。

そこから、古語で「あわい」と読み方があることを知り、「劇団あはひ」となりました。
その後、能楽師の安田登さんの著書で「あわい」についての文章を読むなどしていくなかで、劇団の方向性が固まっていきました。

安田さんは著書『あわいの力』のなかで「能の観客は、何か自分の記憶だったり、そのときの身体の状況だったりを反映させて、各々異なる風景を観ている」という内容のことを言っていて、僕はそれが演劇にとっても一つの理想になるものだと考えてます。

松尾:僕は、結成当初や旗揚げ公演『どさくさ』の稽古をしている頃は、観客へのメッセージや伝えたいことが必須だと考えていて、そういったものが見えてこその作品だと思っていました。でも、あはひでの活動を通じて、そういった考えもあるんだと視野が広がりましたね。

–劇団のなかで「あわい」というのはどう捉えられているのでしょう?

大塚:僕らの中では、「あわい」をベン図で解釈していて、二つある円の重なりの部分を「あわい」だと考えています。
ただ、それぞれの円がなにを指すか、つまり、何と何の「あわい」を考えればいいのか、ということについては、簡単には答えが出せないと思っています。
例えば、仮に安直に「作品と観客のあわい」なんかを追い求めようとしたとき、作品の完成度はあまり重要でなくなってしまうというか、観客個人に働きかけられる1シーンがあればそれだけでもう素晴らしい作品かのようになってしまう。それは違うと思うんです。

松尾:それにその考え方だと、観客に依存してしまうということだと思うし、そうなっちゃうと作品をつくるモチベーションがどうなっていくんだろうっていうのは思いますね。

大塚:なのでむしろ、その問題に取り組み続けることが差し当たりのところは重要なのかもしれない。よくわかりませんが(笑)

–では、今のところは、「何と何のあわい」かということについて実験的に演劇をつくっている感じなのでしょうか?

大塚:そうですね。そもそも、「演劇」という言葉によって狭まってしまうものがあるんじゃないかとも思います。疑えるところをすべて疑って、それでも残っているものが演劇なんだと考えてますね。

松尾:確かに、あはひでは、演劇に対する疑いというのが常に伴っているとは思います。

 

–お二人は、早稲田大学 文学部の演劇映像コース 映像系に所属してらっしゃいますね。演劇系に進まず、映像を専攻しているのもそういった演劇への疑いがひとつの理由なのでしょうか?

大塚:はい。僕はもともと、演劇よりも映画から大きく影響を受けて作品を作っています。特にエドワード・ヤンの作品には、無意識下で影響を受けていると思います。彼の作品は、画として完璧というか、例えば2時間あるうち、いつ止めても完璧な写真になっている、くらいに計算され尽くされていて美しい。まあ、それは演劇にはあまり活かせないポイントだけど(笑)
あとは、テレビドラマですね。宮藤官九郎さんのドラマが好きで、そこから演劇を見始めたので。ただ、演劇を観てておもしろいと思えるものにあまり出会わないんですよね。だから、自分が観客として観ておもしろいと思えるものを作りたいです。

松尾:僕は、大塚が出してくる脚本やアイディアをどうおもしろくするか、自分でどう表現するかを考えたい、というモチベーションでやってます。自分が観客として観ておもしろいものをつくりたい、という点では大塚と同じですね。
でも、僕はもともと高校時代から演劇をやっていて、そこでの環境から大きく影響を受けました。作品をつくる上で、テーマや伝えたいことを共有した上で、あれは違うんじゃないか、こっちがちかいんじゃないか、という話し合いがしたいと思ってました。共有するものがないと、なんでもよくなっちゃう気がして。その点は大塚と異なる点だと思います。

大塚:僕はある意味、結果主義ではあると思います。できあがったものが自分にとっておもしろければ、その過程が全く違っていたり、何をおもしろいと思っているかが異なっていてもぜんぜん関係ない。だから、一方が感動的でエモーショナルな芝居ができたと思っていて、もう一方が滑稽なものができたと思っていたとしても、それぞれの評価軸でおもしろいと思うことができればいいなと思ってます。

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メモれる(冨田)

どうも、冨田です。
2月に入ってから『流れる』の稽古が始まりました。
僕はいま、他劇団の公演の楽日にこれを書いていて、稽古にはまだ一度しか立ち会ってないです。
その日は身体を動かしたあと、読み合わせをして最後に立ち稽古をした。
読み合わせのとき、メモをちょっととってたんですが、言うタイミングがなかったので、ここに書いておきたいと思います(ほぼメモそのままなので敬称略です、●●は役名)。

・平泉成 めっちゃ出てくる 声ここで低くなる?
・たかが言うとTwitterで言ってろ感あるな
・切り替え
・りなお 実家やば 北海道
・鶴田●● 女子大学生ぽさ?
・踊り子●● 押しが強
・ここみんな言いづらそう
・たか-鶴田 いやな上司と部下
・上村さん圧力がないな〜

これだけだとなに言ってんだって感じですね。
「りなお 実家やば 北海道」とか、知らない人が読んだらりなお(古館)の実家が北海道なのかと思っちゃうじゃん、北海道に実家があるのは僕です。
台詞から北海道の実家のことがめちゃくちゃ想起されて、それがあまりにも長く尾を引くからびっくりして書いた記憶ある。

はたから見たらぜんぜんわかんないメモだけど、書いてある部分がどんな感じだったかとかがなんとなく思い出せるので、メモ大事だな〜と思う。
ただ、大事なときほどメモをとる道具が手元にない、とか、言葉を選んでるうちにメモしたい部分の直後を聞き逃した見逃した、といったことが多々あって、その度にまじで自分ちゃんとしてくれという気持ちになるんですよね。
どういうことが起こるか考えたり、言葉をすぐとれる場所に並べて置くとかすれば、然るべきときにちゃんとメモ書けるはずなので。
別にメモをとるのは目的じゃないから書くことに夢中になったりはしたくないんですけど、そのためにも、来るべきメモの瞬間のために万全の準備をやっていきたいと思っています。
それでは。

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